F1だけでは語り尽くせないマクラーレンのスゴさ

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F1だけでは語り尽くせないマクラーレンのスゴさ

■その1:レーシングドライバーのマクラーレンを知る

 マクラーレンと聞いて、貴方は何をイメージされるだろうか。
スーパーカー? フォーミュラ1(F1)? ブルース・マクラーレン?
もちろん、そのいずれもマクラーレンを代表するイメージに違いない。
今回から4回に分けて、マクラーレンの昔から今、そして、マーケティングやデザインなどから
「マクラーレンとはどういうメーカーなのか」を述べてみたい。マクラーレンこの4回をご一読いただくと、もしかしたら新たなマクラーレンのイメージが貴方の中で湧くかもしれない。

 まずはじめはマクラーレンの創設者、ブルース・マクラーレンのお話から。

  

■始まりはオースティン・セヴンから

 全ては1929年製のオースチン・セヴンアルスターから始まる。弱冠15歳だったブルースは、整備士であった父親とともに仕上げたこのクルマでレースデビュー。初勝利をものにしたのだ。

 実はこの勝利は奇跡とも呼べるものだった。ブルースが9歳の時、痛みを伴う股関節の奇病、ペルテス病に侵され、歩くこともままならず、3年間車いす生活を送っていたのだ。幸いにも通常の生活をこなすだけの回復をしたものの、その影響で彼の左足は右足よりも短くなってしまった。

マシンに乗り込むのが、ブルース・マクラーレン
マシンに乗っているのが、ブルース・マクラーレン

 ニュージーランドで生まれ育ったブルースは、父親の影響もあり、歩けるようになるとオークランドにあるカレッジの工学課程に進学。エンジニアとしての知識と技術を身に着けて行った。

 さて、初優勝後のブルースはその後も多くのレースやヒルクライムにエントリーし、優勝をさらっていった。彼の自伝「From The Cockpit」(1964年刊)で、「オースティン・セヴンで走った3年間でリタイアしたことはなく、また、参加クラスで優勝しなかったことは一度もない」と述べるほど、レーサーだけでなく、エンジニアとしてのレベルも高かったことが伺える。

 その後ブルースはヨーロッパのレース界に進出。1955年、22歳のブルースはフォーミュラ1アメリカグランプリで初優勝を飾り、史上最年少の優勝として40年以上もこの記録を破られることはなかった。

■コンストラクター設立と、彼の死と

 1963年、自身のエンジニアとしての情熱をさらに高めるべく、「ブルースマクラーレン・モーターレーシング」を設立し、フォーミュラ1史上最も多くの勝利を達成するチームへと成長していく。更にマクラーレン製のレーシングマシンはフォーミュラ1以外にもCan-Amシリーズなどにも参戦し、多くの勝利をものにしていった。

左のマシンがマクラーレンM8Dだ
右のマシンがマクラーレンM8D。左はMP4-12C カンナムエディション

 1970年6月2日。イギリスグッドウッドでのテスト走行中、自らのチームで開発した1970年用のCan-Amマシン、「M8D』のテスト中にコントロールを失い大破。ブルースは車輛から投げ出されその生涯を閉じたのである。享年32であった。

4台製作されたがブルース・マクラーレンが亡くなった為、未販売となった
マクラーレンが制作した幻のロードカー。4台製作されたがブルース・マクラーレンが亡くなったため市販はされなかった。

 ブルースは、前述の自伝で次のように述べている。「何かを成し遂げるということは、死にもの狂いになってでもやる価値がある。ものごとを良くするための努力は無謀ではない。才能があっても何もしないのは人生を無駄にしていることと同じだ。人生とは、その年月だけではなく、何を成し遂げたのか、それによって評価されるのだ」と。

 天才的なドライバーであり、エンジニアであった彼のこの言葉の裏には、不屈の精神と不断の努力が隠されている。それこそが正に、現在のマクラーレンのクルマ作りにも通じるイメージではないだろうか。

 次回はブルース・マクラーレンの娘が語るエピソードと彼が夢見たロードゴーイングカーの話しからスタートしよう。

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